Bonity | 自分を知ると、人生が変わる

気づきと学びで、もっと軽やかに、自分らしく生きるためのヒント

内なる子どもを癒し、育む


皆さんには、日頃よく感じる嫌な感覚はありませんか。

たとえば、
ふいに湧き上がる漠然とした不安

ひとりではないのに感じる孤独

夜になると襲われる寂しさと悲しみ

こんなふうに、
「いつも他人の顔色をうかがって、自分を後回しにしてしまう」
「やりたいことがあっても、身動きが取れない」
「言いたいことがあるのに、言葉にしようとすると詰まってしまう」
「周りに人はいるのに、孤独を感じてしまう」

ひょっとしたら、こうした感覚の背景には、
子どもの頃に感じた不安や悲しみ、
ありのままの自分を受け入れてもらえなかった傷つきが、
関係しているのかもしれません。

癒されることなく残ったその感覚は、
大人になった今も、
胸の奥で反応し続けることがあります。

こうして心の奥に残っている“内なる子ども”を、
インナーチャイルドと呼びます。


インナーチャイルドとは?

インナーチャイルドとは、すごくシンプルに言うなら、
子どもの頃のある場面で、
傷ついたまま時間が止まっている小さな自分のこと。

幼少期に感じた悲しみや怒り、傷ついた感情を、
親に十分に受け止めてもらえなかったり、
押さえつけられたりすると、
その感情は未解決のまま、その人の中に残り続けます。

するとその人は、
悲しみや怒り、傷ついた感情を抱えたまま、
大人へと成長していくことがあります。

そして大人になった今も、
人と関わるとき、何かを選ぶとき、行動しようとするとき、
大人の中にいる小さな子どもが、瞬時に反応するのです。

 


子どもの頃の関係性が、大人の人間関係に影響する

たとえば、それはこんな場面です。
自分を大切にしてくれない相手ばかりを、
なぜか繰り返し選んでしまうAさんという女性がいます。

Aさんは、本当は大切にされ、
安心できる関係を築きたいと思っています。

それなのに気づくと、
冷たくされたり、振り回されたり、
傷つけられたりする相手ばかりを選んでしまう。

それは、Aさんが傷つくことを望んでいるからではありません。

子どもの頃から、
大切にされないことや、後回しにされることが、
心の基本設定のようになっていると、
大人になってからも、
“大切にされない、馴染みのある関係性”
無意識に選んでしまうこともあります。

この「馴染みのある関係性」は、
自分にとって大切な誰かを選ぶときにも、
影響することがあります。

たとえば、
優しく思いやりがある相手が現れても、
なぜか魅力を感じることができず、
自分を大切に扱ってくれないような相手に
惹かれてしまうことさえあるのです。

では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。


幼少期の傷つきは、物事を見るフィルターになる


幼少期の傷つきは、
単なる過去の出来事として終わるわけではありません。

たとえば、子どもの頃に、
泣くと怒られる。
自分の気持ちを出すと否定される。
大切にしてほしいと願っても、後回しにされる。

そんな体験が繰り返されると、
子どもはその環境で生き延びるために、
自分なりの
「心の基本設定」
を作っていきます。

「私は大切にされない存在だ」
「私が我慢すれば、この関係は壊れない」
「自分を出さなければ、ここにいていい」

こうした「心の基本設定」は、
大人になった今の感じ方や選び方にも影響します。

そのため、
相手に傷つけられても我慢してしまったり、
自分を大切にしてくれない人を選んでしまったりすることがあります。

つまり、幼少期の傷つきは、
大人になった今の物事の見方や選び方に影響する、
ひとつのフィルターになるのです。


インナーチャイルドワークとは?

そこで大切になってくるのが、
インナーチャイルドワークです。

このワークは、
傷ついたまま時間が止まっている小さな自分に気づき、
今の自分が少しずつ寄り添い、
つながり直していくための時間です。

子どもの頃の自分は、
悲しみや怒り、寂しさを感じても、
それを十分に受け止めてもらえなかったかもしれません。

だからこそ、
大人になった今の自分が、
その感情に気づき、

「そう感じていたんだね」
「悲しかったよね」
「怖かったよね」

と子どもの気持ちを認め、受け入れ、寄り添っていきます。

このように、
置き去りにしてきた自分と少しずつつながり直していくことが、
インナーチャイルドワークの大切なプロセスです。

 


小さな自分を癒し、育てていく


そして、さらに大切なことは、
その子が本当は感じていたことを認め、受け入れ、寄り添いながら
少しずつ自分の中に、安心できる場所を作っていくことです。

「もうひとりで我慢しなくていいんだよ」
「ここにいていいよ」
「私があなたを守るから」

そんなふうに、
大人になった今の自分が、
子どもの頃の自分と関わり直していく。

それは、
傷ついたまま止まっていた自分を癒し、
もう一度育て直していくようなプロセスでもあります。

 


インナーチャイルドワークのご感想

実際にインナーチャイルドワークを受けてくださった方のご感想は、別の記事にまとめています。

bonity.hatenablog.jp

 


◆最後に…

もし今、
繰り返し起きている嫌な出来事や、
同じような人間関係、
なかなか抜け出せない生きづらさに悩んでいるとしたら、

「私は、いつからこれを繰り返しているのだろう」

と、自分に問いかけてみてもいいかもしれません。

その問いの先に、
「あの頃から、私はこれが怖かったんだ」
「小さな頃の私は、ずっとこれを我慢していたんだ」

そんな小さな自分の傷つきに気づくことがあるかもしれません。

そのとき、
大人になった今の自分が、
その子を迎えにいき、
少しずつ関わり直していくこと。

そこから、癒しは少しずつ始まっていくのだと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

インナーチャイルドワークのご感想


3月から、インナーチャイルドワークのモニター募集を行っています。

今回は、実際にワークを受けてくださった方から、ご感想をいただくことができました。ご本人の許可をいただき、一部を掲載させていただきます。

インナーチャイルドや、インナーチャイルドワークについては、また別の記事で改めて書いてみたいと思います。


【インチャワーク申し込みのきっかけ】

セッションを受けた直後数日は、インチャに声を掛けたりインチャの存在を感じられるのですが、日常生活が続くと徐々に感じられなくなったり、取り組もうとしてもインチャの姿が上手く出てこなかったり、せっかく出てきてくれても雑念で気が散ってしまったり、これでいいのかな?と悩んでいました。


【ワークの感想】

自分でする時はいつもいきなり声掛けしていたのですが、最初に呼吸を整えたことでインチャに会いに行く準備ができました。

喉の奥にギュッとなっている幼い私を見つけた時、そして会いに行って触れるというのがまさにこうやって「見つけて欲しくて隠れていた、けどずっとサインを送ってくれてたんだなぁ」と思えて感動しました。

最初は声を掛けても何も言ってこなかったり触れようとしても上手く体温を感じられずに焦りましたが、「それでも大丈夫だよ」と言ってもらえたお陰でホッとして無理なく進められたのが有り難かったです。

段々頷いて反応してくれたり「お母さんに遊んで欲しかった」「笑顔でいてほしかった」「寂しかった」など本音を教えてくれました。

「遊んで」「寂しい」と母に言ったらわがままと言われたり否定されて怒られる。
だからギュッと口を結んで言葉が出ないように我慢してたんだなって思うとそんな健気な私に涙が出ました。

感じてはいけないってそういう事か!と目からウロコで

大人の私はムカつくとか嫌だとか悲しいとか感じてるはずなんだけどな、、ビリーフの「感情感覚を感じてはいけない」があるってどういう事だ?という長年の謎が今日やっと解けました。

終わる頃にはインチャの体温も感じられて自分の胸の中を居場所として戻せたのもとても温かい感じがして嬉しかったです。

横内さんの声の掛け方やペースがとても心地よく安心できました。
お陰様で内容の濃いインチャワークとなり沢山の気付きが得られてお願いして本当に良かったです。

ー Mさま

 


Mさん、改めまして
ご感想をお寄せいただき、ありがとうございます。

ご自身で気付かれたことが沢山あったこと。
そしてその中でも、
小さなころのMさんが心から求めていた本心に触れることができたこと。

それが、何より大きな気付きだったのかもしれません。

そんな時間を一緒に共有させていただき、
私もうれしく思っています。


インナーチャイルドって?

子どもの頃の親との関わりの中で傷ついたまま、
心の奥に残っている小さな自分のことを指します。

子どもにとって、
「愛されたい」
「大切にしてほしい」
「分かってほしい」
という気持ちは、ごくごく自然な欲求です。

けれど、親にその気持ちを十分に受け止めてもらえなかったり、
否定されたり、我慢するしかなかったりすると、
悲しさ、寂しさ、悔しさ、怖さが、
癒されないまま心の奥に残ってしまうことがあります。

それは、子どもの頃の出来事として終わるのではなく、
未完了の傷として残り、
大人になってからも、
様々な形でその人の人生に影響を与え続けることがあります。

 


インナーチャイルドワークとは?

インナーチャイルドワークは、
その傷ついた小さな自分に気づき、
今の自分が少しずつ寄り添い、
つながり直していくための時間です。

インナーチャイルドやインナーチャイルドワークについては、
また別の記事であらためて書いてみたいと思います。

私を縛り付けていた「恥」という感情

「欲しい」と言うことへの抵抗感

ふだんは忘れているのに、
何かのきっかけでふと思い出すイヤな記憶。
そんな記憶はないでしょうか。

起きた出来事そのものは、
ひょっとしたら小さなこと、なのかもしれません。
でも、そのときに感じた「恥ずかしさ」や「悲しさ」が、
ふいに頭をもたげてくることがあります。

そしてその感覚は、
大人になった今でも、
形を変えて繰り返し、
何らかの生きづらさとして現れることがあるのです。

今回は、そんな一見ささいに思える出来事が、
その後の私の感じ方や行動にどのような影響を与えてきたのか、
ひとつの例を通して振り返りながら、
こうした問題をどう扱っていけるのか、
自分なりに考えてみたいと思います。


◆小学生の頃の出来事

私の経験を、少しお話しさせてください。

小学校5年生くらいの頃だったでしょうか。
親戚との食事の帰りに、みんなで買い物へ行きました。

そのとき私は、母に洋服が欲しいとねだって、買ってもらったことがあります。

後日、母からこんなふうに言われました。

「お前の娘はわがままだなって、おばちゃんが言ってたぞ」

そして母は、

「おばちゃんにそう言われて、お母さん恥ずかしい思いをしたわ」

怒りながら、そう私に伝えてきたのです。


数十年たった今でも、
繰り返し思い出してしまうくらい、
その言葉は私の胸の奥に残り続けていました。


◆ 子どもだった私が受け取ったもの

そのとき私が受け取ったのは、

  • 「欲しい」と言うことは恥ずかしいことなんだ
  • 自分の欲求を出すことは、わがままなんだ
  • 私が欲しがると、母に恥をかかせるんだ

という感覚だったのだと思います。

でも、子どもだからといって、
そんなふうに自分の欲求を簡単になかったことにはできません。
それに子どもは、親の力を借りなければ、
自分の欲求を満たすことが難しい存在でもあります。

では、その後の私はどうなったかというと、
「〇〇が欲しい」と言うときに、
あれこれ言い訳を探し、
自分なりに“まっとうな理由”を用意しつつ、
どこか怒りのようなものまで感じながら、
親に伝えていたように思います。

そして大人になる頃には、

「欲しいものは自分で買うべき」
「その方がラク」
「誰かに満たしてもらうようでは恥ずかしい」

そんな思い込みが、
少しずつ強化されていったように思うのです。


◆ 子どもの「欲しい」に敏感に反応してしまう

だから私は、
子どもが「これ欲しい」「あれ買って」と甘えてきたとき、
必要以上に強く反応してしまったのだと思います。

あの頃の自分のような思いはさせたくない。
そんなふうに、過去の自分をどこかで救いたくなることがあります。

また、子どもの欲求に

「No」と答えたときに湧き上がる

あの罪悪感を感じたくない
という気持ちもあるのだと思います。

その一方で、

買い与えてばかりいたら、
子どもをわがままにしてしまうのではないか。
私は子どもの言いなりになっているのではないか。
素直に甘えられる子どもに対して、
なんと狡さのようなものを感じてしまうこともある。

そして逆に、買わないことを選ぼうとすると、
やはり罪悪感が湧いてきます。
「そんなものくらい買ってやればいいじゃないか」
と、妙に“大人な自分”の声が聞こえてきたりもするのです。


◆ どっちに転んでもモヤモヤ

買ってあげても、
子どもの言いなりになっているような不快感。

買わなければ、
子どもの欲求を叶えてあげられない自分に感じる罪悪感。

そんなふうに、どちらを選んでも、
どこか少しモヤモヤしていたのです。

こうして客観的に自分のことを見てみると、
私は「これが欲しい」という欲求への関わり方が、
少し“いびつ“だったのかもしれないな、
と改めて気が付きました。


◆ 私を縛りつけていたもの

自分が幼少期に満たされなかった思いを、
子どもにはさせたくないと思うこと。
それ自体は、決して悪いことではありません。

でも、たとえ子どもの欲求を私が満たしたとしても、
その行為によって、私自身が本当に満たされるわけではない。
だからこそ、どこかにモヤモヤが残るのだと思います。

では、本当に私の「欲しい」という気持ちは、
恥ずかしいものなのでしょうか。

もちろん頭では、
自分の欲求が恥ずかしいものだとは思っていません。

けれど、あのとき母の口を通して言われた言葉を握りしめたまま、
私はどこかでずっと、

恥をかかないような自分でいなければならない
人の前に出す自分の欲求は、妥当で正しいものでなければならない

そんなふうに、自分を縛りつけていたのだと思います。

そして私を縛っていたのは、
今となってはもう、母の言葉というよりは、
その言葉を抱え続けてきた私自身だったのだと気がついたのです。


◆ ひとことで「恥」といっても

幼少期に経験した、本当にささいな出来事。
でも、それが"ちくり"と心に傷を残しているとしたら
「もう、こんな思いはしたくない」
そう思うのは、ある意味とても自然なことなのかもしれません。

だから私たちは、
「もう二度とあんな経験はしないように」と、
自分を守ろうとするのだ思います。
私もまた、そうやって鉄壁のガードで自分を守ってきました。

今回は「恥」というテーマで自分の経験と結び付けながら書いてみました。
改めて考えてみると、ひとことで「恥」と言っても、
そこにはいくつかパターンのようなものがあるように思います。

  1. 人から叱られる、下に見られる、笑われる、ばかにされる恥
  2. できない自分、失敗した自分、みっともない自分への恥
  3. 人に頼ること、甘えることの恥
    弱い自分は恥ずかしい、という感覚
  4. 目立ったり、人に見られることによつて感じる恥
  5. 共感性羞恥
    他人の失敗やスベっている場面を見て、自分まで恥ずかしくなる感覚

もちろん、これらはきれいに線引きできるものではありません。
ひとつひとつが独立しているというより、
根っこのところで、うっすらとつながり合っているのだと思います。


◆ 最後に...

幼少期の嫌な出来事を言葉にすることで、
いかに私が、私自身を縛ってきたのか。
そのことに改めて気づくことができたのは、
私にとって大きな発見でした。

まっとうな理由が説明できなければ、
「私は欲しがってはいけない」
そんなふうに思っている自分がいたことにも、驚きました。

「恥」の感覚は、やっぱりイヤなものです。
だからこそ、もう二度とそんな思いはしたくないと、
人は気をつけながら生きるのだと思います。

でも、その感覚に縛られすぎると、
恥を避けることばかりに必死になって、
かえって自分を不自由にしてしまうこともあるのかもしれません。

失敗して恥を感じることは、たしかに苦しいですよね。
けれどそれは、
自分の弱さや痛みを知り、
成長していくためのきっかけにもなりえる。
私はそんなふうに思っています。

これを読んでくださっている方は、
ご自分の「恥」の感覚と、どんなふうに向き合っているでしょうか。

誰かを許せない自分は、ダメなのでしょうか

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

わたしは冷たい人間なんだろうか

「私の生きづらさ」その原因は『これ』だったのかー

セッションやオンラインカウンセリングの中で
話を整理していくうちに
「あぁ、私が生きづらい原因はこれだったのか」と
改めて気付くことがあると思います。

それは、親とのことかもしれないし、
学校でのことかもしれない。
友人との関係の中で起きたことかもしれません。

そんな絶望に打ちのめされ、
誰かを許せない気持ちでいっぱいになり、
その思いに自分自身が苦しくなってしまう。
そんなこと、ないでしょうか。

その一方で、
過去にあった出来事を
いつまでも引きずっている自分を、
情けなく、弱い人間だと感じてしまう。

「怒りが、どうにもおさまらない」
「〇〇なんて、本当は心の底から嫌いだ」
こんなふうに、
自分の内側に渦巻く感情に苦しくなったり、

「お願いだから、私の目の前から消えてくれ」
そんなふうに願ってしまう自分を、
人間として欠落しているんじゃないかと感じたり、
自分はなんて冷たいイヤなやつなんだろうと、
そんな自分を責めてしまう。

自分を打ちのめしたくなってしまう。

そんな気持ちになり、苦しんでいる人は
少なくないのかもしれません。

私は、
真面目で一生懸命な人ほど、
「誰かを許せない自分」を
『悪者』にしてしまうように思うのです。

けれど、
誰かを許せずにいるあなたは、
本当にダメで冷たい人間なのでしょうか。

 

「もう終わったこと」のはずなのに
そう、
「もう終わった過去の出来事」なんですよね。
自分でも、よくわかっているんです。

でも、
過去に親からされた嫌だったこと、悲しかったことが
ふとした瞬間によみがえる。

たとえばー

  • 過去に親から言われた一言が、今も頭から離れない
  • 自分だけ愛されなかった苦しみが、今も消えない
  • 親が過干渉だったために、自分で考えて行動することが怖い
  • 気持ちを受け入れてもらえなかったために、感情を出すことが怖い
  • 親を優先して生きてきたので、自分を優先すると罪悪感に襲われる
  • 何をしても否定されてきたので、自分に自信が持てない

頭では終わったことだと分かっている。
「もう終わったことだよ」
「親とはもう距離を取ってるし。昔のことだよ」

こんなふうに片付けようとしても
心の中では終わっていないからこそ、
そう簡単に「はい、終了」とはいかないのかもしれません。

親を許せない自分を責めてしまう理由って?
なぜ私たちは、親のことを許せない自分を
悪者扱いしてしまうのでしょうか。

その背景には、たとえばこんな思い込みや刷り込みがあるのかもしれません。

  • 親を悪く思ってはいけない
  • 親には感謝しなければならない
  • 育ててもらった恩がある
  • 「どれだけお前にお金をかけたと思っているんだ」と言われてきた
  • いつまでも過去にこだわるのは未熟な証拠だ

すると親に傷ついた苦しみは脇において
そんな親を許せない自分の方を責めてしまうことがあるのです。

 

許せなくて悩んでいるなら

許せない私に問題があるのではないか


許せなくて悩むということは、
どういうことなのでしょうか。

それは、
「許せない」
「許したくない」
ということなのかもしれません。

「あぁ、わたしは許したくないんだな」

わたしが大切だと思うのは、
そんな自分の気持ちに気づき、認めること。

そして、
今、無理に許そうとしなくてもいいのかもしれない
という意識を、
頭の片隅に置いておいてもいいと思うのです。

というのも、
許せない相手を無理やり許すということは
本当の自分の気持ち、たとえば
「どんな自分でも、無条件に大切にしてほしかった」
という傷ついた思いを
ふたたび、
心の奥底に押し込めてしまうことにもなりかねないからです。


押し込めてしまったその気持ちは、
行き場を失ったまま、
また別の形で、苦しみとして現れることがあるのです。

だからこそ、

「私は私の人生を歩むんだ」
「自分のために、過去に区切りをつけて前に進みたいんだ」

そう思えたときに、
あなたが、自分自身のタイミングで、
納得できる選択をしていけばいいのだと思います。

最後に...
私たちは、家庭や学校で幼い頃から、

許すことは優しさである
許すことは美徳だ
許せないままでいるのは、
怒りに執着している未熟な証拠である

そんなふうに、どこかで教わってきたのかもしれません。

でも、
それは理不尽を受け入れなさい、
ということではないと思うのです。

それよりも、
傷ついたことや、苦しかった気持ちを
あなた自身が少しずつ癒していくということ。

それが、あなたが自分の人生を歩むための
大切な一歩になっていくのだと思います。

もし、
自分自身が苦しくて、
どうしたらいいのか分からなくなってしまったときは、
ひとりで抱え込まず、ご相談くださいね。

内向型の私が、生きやすくなった理由

ひとり時間を楽しみたい

 

誰かと一緒にいるのに
ふと感じる疎外感
または、
話の輪に入って、楽しかったはずなのに
なぜか帰り道にどっと押し寄せる疲労感

本当は一人で過ごすことが好きなのに、
「人と関われない自分はダメだから」
「孤独な自分を感じるのが怖いから」と、
無理やり人と関わることを選んでいませんか。

私は、いわゆる内向型の人間なんですが、
見知らぬ人ばかりの賑やかな場にいることを、長年避けて生きてきました。

けれどリトリーブサイコセラピーで、基礎コースから応用、ハイパーコースへと学び心理やセッションに触れていく中で、

あ...そんな自分でもいいんだな」と少しずつ受容できるようになっていったのです。

それだけでなく
「自分が大切にしたい人と、
一緒のときを楽めればそれに越したことはない」
こんな風に、自分の内面が変わっていくのを感じたのです。

 


◆あなたは内向型?それとも外向型?

内向型・外向型と聞くと、
「内向型はダメなんじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。
でも、これは性格の優劣とは関係ありません。

内向型は、ひとりの時間や静かな環境で整えやすい傾向があり、
外向型は、人との交流や動きのある環境で元気が戻りやすい傾向があります。

どちらが良い・悪いではなく「自分に合う整え方が異なる」ということなんだと思います。

実は、自分の傾向は「内向型寄りかもしれない」と分かった時、なぜか少しだけ「ホッ」とした記憶があります。
それまで私は、漠然と人との距離感に悩んでいたのですが、内向型の人が持つ「パーソナルエリア」の広さを理解したとき、「あぁ、だから私はこうなのか!」と妙に腑に落ちたのです。

ただ、私が問題だと思っているのはそこではなく、
なぜか執拗に「理想とする自分」や「こうあるべき自分像」に執着して、
自分を変えなくちゃいけないと信じ込んでいたことです。

 


◆「理想の自分」にピン止めしていたワケ

当時、私が苦しかったのは、
なぜか執拗に「理想とする自分」や「こうあるべき自分像」にしがみついて、
自分を変えなければ大変なことが起こると思い込んでいたことです。

本当の私は、
ひとり時間が好きで、静かな場所で自分を整えるタイプでした。
それなのに、「人の輪に入れない私はダメだ」と思って、
無理やり「外向型っぽい自分」を作ろうとしていたんです。

たとえば、
たくさん人がいる場で、人と関われない自分を「なんとかしなくちゃいけない」と思っていました。
だから私は、無理やり人と関われる状況を自分で作り出して、人と関わろうとしていたんです。


具体的には、子どもの学校のPTA役員。
本当はやりたくないのに役員に立候補して、なんとか役員仲間を作ろうとしたり。

今思えば、やりたくないことを必死で頑張ってたし、
自分を甘やかしてもいけないと思っていたし、
自分のことを大切にできていなかったなと思います。

それはなぜかというと、
素の私、内向的な私のままでは価値がないという劣等感。
集団の中で、ひとりぼっちの自分。
そんな自分は馬鹿にされるに違いない。

これを感じてしまうことが何より怖かったのです。



◆私がその恐怖を手放せたキッカケ

恐怖や不安に駆られているとき、
私たちの視野はとても狭くなります。
そして、いつ不意を突かれてもいいように、
心も身体も過剰に警戒したままになってしまうのです。

でも、現実を少し俯瞰して見てみると、
他人は思っているほど私に関心がないし、
極端に嫌ってくる人ばかりでもない。
ましてや、毎日毎日、馬鹿にされるわけでもありません。

あぁ、私はこうして自分を守ってきたんだなぁ。

現実に起きていないことを妄想して自分を怖がらせていれば
「誰かと関わって傷つくかもしれない」という場面を避けることができ、
嫌われて孤独になる恐怖から逃れることができていました。

でも、私たちが本当の意味で自分の中に変化を起こすためには
「今ここ」で起きている現実の中に、足を地につけて生きる必要がある。
それを私は、心理学を通じて学んだのです。

そして、気が付いたんです。
自分の好きな人とだけ、関わればいいじゃないって。

もちろん、そこにはまだ怖さは残っています。
「好きな人とだけ」と言っても、その人にも選ぶ権利はある。
拒絶される怖さが、ゼロになるわけじゃない。

それでも私は、
嫌われる恐怖を目の前に置いて人と繋がることより、
「私は一緒に過ごしたい人との時間を大事にする」
この方が、ずっと自然だと思えました。

 


◆さいごに...

私にとって「ひとり時間」は、大切な「自分のための時間」。

ひとりの時間を大切にできるようになってから、
私が一緒に過ごしたい人と接する時間も、
大切にできるようになりました。

内向型の自分を受け入れ、
自分自身を大切にするようになって
私の人生は、ずっと生きやすくなったのです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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どうしてわたしは、あの子より大切にされないの?

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のテーマは

「どうしてわたしは、あの子より大切にされないの?」

ー頑張り上手な人が、いつの間にか陥る「搾取」の正体

どうして私は、あの子より大切にされないのかな


「どれだけ頑張っても、あの子の方が大切にされている気がする」
「どうしてあの子みたいに、誰かに甘えられないんだろう」

仕事でも人間関係でも、ふとした瞬間に感じる
私は大切な人にとっての、一番になれない」という孤独感。

実はその根っこには、
幼い頃に感じた「ある絶望」が隠れているのかもしれません。

 

存在しているだけでOKな「あの子」と、頑張って役に立たなきゃいけない「わたし」

今までにも何度となくこのブログ内で書いてきましたが、
私は長年「長女コンプレックス」を抱えて生きてきました。

「長男がいちばん」、「長男至上主義」の空気が流れる家庭で、
私が無意識に選んだのは「親を喜ばせる、役に立つ良い子」という役割でした。

勉強や部活、周囲への気配り(少し盛っています(笑))。
何事もコツコツまじめに取り組み、
私はいつしか「頑張り上手」になりました。

その一方、長男である弟は、
ただそこに存在しているだけで喜ばれ、
価値を認められる存在。

 弟 = 存在そのものに価値がある(優先される存在)

 私 = 役に立っている時だけ、価値がある(二番手の存在)

「どんなに頑張っても、
私はあの子のようにありのままでは一番にはなれないんだな」

そんな絶望を抱えたまま、
いつの間にか大人になっていたような気がするのです。

頑張り上手という名の「搾取」のターゲット


この絶望を埋めるために、私たちは大人になっても
自分の存在意義の証明」
を続けてしまいます。

  •  リラックス=怠けることだと感じ、常に自分を追い込む。
  • 「甘えは恥」と自分を律し、完璧主義を貫く。
  •  自分を必要以上に頑張らせて、周囲を喜ばせる。
  • 相手から失望されるのが怖くて、努力を怠らない。

そうやって必死に「役に立つ自分」を作り上げますが、
ここには残念ながら『からくり』が隠れています。

それは、頑張り上手な人ほど、
無意識のうちに他人からの
「搾取」のターゲットになりやすいということです。

あなたが「役に立とう」とすればするほど、
周囲はあなたを「大切に扱う対象」ではなく、
「都合よく使ってもいい便利な存在」
として見るようになります。

 

その頑張りは、誰のためのもの?

もし、あなたに深く思い当たる節があるなら
少し胸に手を当てて考えてみませんか。

「あなたのその頑張りは、一体誰のためのものでしたか?」

それは、
お父さんやお母さんを喜ばせるためではなかったでしょうか。

だって、
子どもは、みんな親のことが大好きですよね。


お父さん、お母さんの笑顔が見たくて、
力になりたくて、健気に頑張ってしまう。
その気持ちはとても純粋な親への「愛」だったはず。

けれど、そうやって「いい子」でいることでしか
自分の居場所を得られなかったとしたら、

「役に立たないと、ガッカリされて大切にしてもらえない」
=>>>「だから私は、頑張らなくちゃいけない!」

という恐怖を伴う「生存戦略」へと
変わっていってしまったのかもしれません。


「自分の存在意義の証明」を卒業する

こうしていつの間にか、
自分の存在意義を「頑張る」ことで証明し続けてきたなら...

その結果、得ることができた「成功体験」も多くあるはずです。
「頑張っているね」と認められ、
「あなたのお陰で助かった」と喜んでもらえることが
あなた自身の喜びでもあったかもしれません。

でもその一方で
その証明方法は、
あなたの自由な動きを縛ってきました。

ここで問い直したいのは、
「どうして私は大切にされないの?」
ではなく、

「私は、私を大切に扱ってきただろうか?」

と自分自身に問いかけてみることが大切なのかもしれません。

頑張らないと価値がない、
役に立たないと居場所がない。

そうやって自分を追い立ててきたのは、
他人だけではなく、
いつの間にか“自分自身”だったのかもしれません。

もちろん、頑張ることは悪いことではありません。

でももし、その頑張りが

「嫌われないため」
「見捨てられないため」
「一番になれない不安を埋めるため」のものだったとしたら?

そろそろ、

「存在証明のレース」から降りてもいいのかもしれません。

あなたは、

誰かの役に立っているときだけ
価値がある存在ではありません。

頑張っているときだけ
大切にされる存在でもありません。

まずは、

私が、私を大切に扱う。

そんな小さな決断が
あなたをゆるめるきっかけになるのかもしれません。


ここまでお読みいただきありがとうございます!
こちらも是非ご覧ください。

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カレー屋でもらった50円分の5円玉10枚のお釣りについて書こうと思う

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のテーマは

お釣りでもらった50円分の5円玉10枚。
あなただったら受け取る?


「モヤモヤ」って、わりと私たちの身近なものですよね。

今日は、自分の中で感じた
「モヤモヤ」
(・・・なんか字までモヤって見えますが(笑))
についてお話ししたいなと思います。

自分をすこし深掘りしてみたら
原因は「外側」ではなく
「内側」にあった...というお話です。


たった50円のはずなのに...

先日、近所のカレー屋さんで買い物をしたときの話です。
1,350円分のカレーを買い、2,000円を出しました。

お釣りは
500円玉1枚、100円玉1枚。

次は50円玉のところに行くのかと思いきや、
店員さんの手は、5円玉のところへ。

1枚、2枚、3枚……と数え始めたあたりで
(番町皿屋敷みたいw)
「え?え?」と、頭が混乱しているうちに、

5円玉10枚とともに、
「はい、650円のお釣りです」
と言って、私の手元へ差し出されました。

以前の私であれば、
「なんか嫌だな」と思いながらも受け取り、
家に帰ってから、

「なんかモヤモヤするー!!」

と、ひとりで怒っていた気がします。

では、今回はどうだったかというと。
「これは、ちょっといただけないので……」
と伝え、
改めて自分の財布の中を確認すると、
10円玉が5枚ありました。
(最初から出せばよかったな、という後悔が
一瞬、頭をかすめつつも)

それを出して、
700円のお釣りをもらいました。

表面的な解決はできたように見えますが
結局、私の中にモヤモヤは
残ったままだったのです。

 


私の脳内会話

正直に言うと、
そのときの私は、こんなふうに感じていました。

・なんだか、店員に軽んじられた気がする
・最初に「50円玉と10円玉を切らしているのですが」
 とか、一言あってもよかったんじゃない?
・サービス業としてどうなの?
 私だったら?こんなサービスはしない etc...

脳内の批判者が、
お店と店員さんをジャッジするような
会話を続けます。

一方で、
・こんなことでイライラするなんて、
 私はなんて心が狭いんだ。
・金額的には何も間違ってないじゃん。
 細かいことにとらわれすぎだ!

と、今度は自分を成敗し始める始末。

実は、
今までにもこんなふうに、
「外側のせいで、自分はこういう気持ちにさせられている!」
と、ネガティブな感情にのまれることが度々ありました。

だからこそ、
これは自分の内側を見つめる
いい機会なんじゃないかと思い、

一体、何が問題なんだろう。
どうしたら解決できるんだろう。
と、自分に向き合ってみることにしたのです。

 


他人は自分の写し鏡

「失礼なことをされて、モヤモヤした」

最初は、そんなふうに
このモヤモヤの原因は
外側である相手にあるように感じていました。

でも
今回起きた目の前の出来事は、

私の内面が作り出した世界を
相手の中にみつけだし

相手を批判していたのかもしれない
と気づかされたのです。


では私は、
相手の行動の中に何を見ていたのか。

振り返ると、
・お客さんには正しいサービスを提供するべき
・失礼なことをしてはいけない
・完璧にやらなくてはならない
・世間一般的な常識から逸脱してはいけない

そんなふうに、
自分の中の
凝り固まった常識やルールを、
目の前の相手に当てはめ、

同時に、
自分が自分に
禁止してきたことを、
相手の中に見つけていたのかもしれません。


だとしたら、
これは誰の問題なのか。

「あぁ、これは自分が選んでいる問題だな」

そんな気づきにたどり着いたのです。

そもそも、
私たちはなぜ、
こうした反応を選んでしまうのでしょうか。

 


不快を避けようとすればするほど...

人は無意識のうちに、
不快を避け、快を得ようとするものかと思います。

例えば、
「仕事ができない無力な自分は感じたくない」
という思いを原動力に
完璧を目指したとしましょう。

頑張った結果、
人から評価されることもあるかもしれません。

でも一方で、
目の前に仕事でミスをする人が現れたとき、

その人を
「だめだ」と
レッテルを貼り、
決めつけしてしまう可能性もあります。

だから、
「無力な自分を感じたくない」
という感覚を避ければ避けるほど、

不思議なことに、
そうした部分を持つ人が
目につくようになるのも
よくあることなのかもしれません。

 


そんな時こそ自分の感情を感じきる

今更ですが、
私自身も、
これまで書いてきたような性質を
持ち合わせています。

「ダメな自分なんて感じたくないじゃない」

私はずっと、
そう思って生きてきたように思います。

 

だって感じてしまったら、

 

自分の存在を
消したくなるような感覚にもなるし、

必要のない人間だと
人から拒否されて、
居場所がなくなる恐怖も湧いてくる。

なにより、
むなしさ、やるせなさ、
悲しみ

いっぱいになってしまうから。

でも本来、
わたしたちは
あるがままの自分で
存在したっていいはずなんですよね。

それを素直に受け入れることができたら
羽のように軽く生きていけるのに。

だからこそ
今日はここで自分自身に言いたいなと思うのです。

むなしさ、やるせなさ、悲しみを
ちゃんと感じて
自分のものとして
受け入れたとき、


その先に、
どんな自分が待っているのだろう。

ここまでお読みいただき感謝感激です♪