Bonity | 自分を知ると、人生が変わる

気づきと学びで、もっと軽やかに、自分らしく生きるためのヒント

内向型の私が、生きやすくなった理由

ひとり時間を楽しみたい

 

誰かと一緒にいるのに
ふと感じる疎外感
または、
話の輪に入って、楽しかったはずなのに
なぜか帰り道にどっと押し寄せる疲労感

本当は一人で過ごすことが好きなのに、
「人と関われない自分はダメだから」
「孤独な自分を感じるのが怖いから」と、
無理やり人と関わることを選んでいませんか。

私は、いわゆる内向型の人間なんですが、
見知らぬ人ばかりの賑やかな場にいることを、長年避けて生きてきました。

けれどリトリーブサイコセラピーで、基礎コースから応用、ハイパーコースへと学び心理やセッションに触れていく中で、

あ...そんな自分でもいいんだな」と少しずつ受容できるようになっていったのです。

それだけでなく
「自分が大切にしたい人と、
一緒のときを楽めればそれに越したことはない」
こんな風に、自分の内面が変わっていくのを感じたのです。

 


◆あなたは内向型?それとも外向型?

内向型・外向型と聞くと、
「内向型はダメなんじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。
でも、これは性格の優劣とは関係ありません。

内向型は、ひとりの時間や静かな環境で整えやすい傾向があり、
外向型は、人との交流や動きのある環境で元気が戻りやすい傾向があります。

どちらが良い・悪いではなく「自分に合う整え方が異なる」ということなんだと思います。

実は、自分の傾向は「内向型寄りかもしれない」と分かった時、なぜか少しだけ「ホッ」とした記憶があります。
それまで私は、漠然と人との距離感に悩んでいたのですが、内向型の人が持つ「パーソナルエリア」の広さを理解したとき、「あぁ、だから私はこうなのか!」と妙に腑に落ちたのです。

ただ、私が問題だと思っているのはそこではなく、
なぜか執拗に「理想とする自分」や「こうあるべき自分像」に執着して、
自分を変えなくちゃいけないと信じ込んでいたことです。

 


◆「理想の自分」にピン止めしていたワケ

当時、私が苦しかったのは、
なぜか執拗に「理想とする自分」や「こうあるべき自分像」にしがみついて、
自分を変えなければ大変なことが起こると思い込んでいたことです。

本当の私は、
ひとり時間が好きで、静かな場所で自分を整えるタイプでした。
それなのに、「人の輪に入れない私はダメだ」と思って、
無理やり「外向型っぽい自分」を作ろうとしていたんです。

たとえば、
たくさん人がいる場で、人と関われない自分を「なんとかしなくちゃいけない」と思っていました。
だから私は、無理やり人と関われる状況を自分で作り出して、人と関わろうとしていたんです。


具体的には、子どもの学校のPTA役員。
本当はやりたくないのに役員に立候補して、なんとか役員仲間を作ろうとしたり。

今思えば、やりたくないことを必死で頑張ってたし、
自分を甘やかしてもいけないと思っていたし、
自分のことを大切にできていなかったなと思います。

それはなぜかというと、
素の私、内向的な私のままでは価値がないという劣等感。
集団の中で、ひとりぼっちの自分。
そんな自分は馬鹿にされるに違いない。

これを感じてしまうことが何より怖かったのです。



◆私がその恐怖を手放せたキッカケ

恐怖や不安に駆られているとき、
私たちの視野はとても狭くなります。
そして、いつ不意を突かれてもいいように、
心も身体も過剰に警戒したままになってしまうのです。

でも、現実を少し俯瞰して見てみると、
他人は思っているほど私に関心がないし、
極端に嫌ってくる人ばかりでもない。
ましてや、毎日毎日、馬鹿にされるわけでもありません。

あぁ、私はこうして自分を守ってきたんだなぁ。

現実に起きていないことを妄想して自分を怖がらせていれば
「誰かと関わって傷つくかもしれない」という場面を避けることができ、
嫌われて孤独になる恐怖から逃れることができていました。

でも、私たちが本当の意味で自分の中に変化を起こすためには
「今ここ」で起きている現実の中に、足を地につけて生きる必要がある。
それを私は、心理学を通じて学んだのです。

そして、気が付いたんです。
自分の好きな人とだけ、関わればいいじゃないって。

もちろん、そこにはまだ怖さは残っています。
「好きな人とだけ」と言っても、その人にも選ぶ権利はある。
拒絶される怖さが、ゼロになるわけじゃない。

それでも私は、
嫌われる恐怖を目の前に置いて人と繋がることより、
「私は一緒に過ごしたい人との時間を大事にする」
この方が、ずっと自然だと思えました。

 


◆さいごに...

私にとって「ひとり時間」は、大切な「自分のための時間」。

ひとりの時間を大切にできるようになってから、
私が一緒に過ごしたい人と接する時間も、
大切にできるようになりました。

内向型の自分を受け入れ、
自分自身を大切にするようになって
私の人生は、ずっと生きやすくなったのです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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興味のある方は是非ご覧くださいね。

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どうしてわたしは、あの子より大切にされないの?

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のテーマは

「どうしてわたしは、あの子より大切にされないの?」

ー頑張り上手な人が、いつの間にか陥る「搾取」の正体

どうして私は、あの子より大切にされないのかな


「どれだけ頑張っても、あの子の方が大切にされている気がする」
「どうしてあの子みたいに、誰かに甘えられないんだろう」

仕事でも人間関係でも、ふとした瞬間に感じる
私は大切な人にとっての、一番になれない」という孤独感。

実はその根っこには、
幼い頃に感じた「ある絶望」が隠れているのかもしれません。

 

存在しているだけでOKな「あの子」と、頑張って役に立たなきゃいけない「わたし」

今までにも何度となくこのブログ内で書いてきましたが、
私は長年「長女コンプレックス」を抱えて生きてきました。

「長男がいちばん」、「長男至上主義」の空気が流れる家庭で、
私が無意識に選んだのは「親を喜ばせる、役に立つ良い子」という役割でした。

勉強や部活、周囲への気配り(少し盛っています(笑))。
何事もコツコツまじめに取り組み、
私はいつしか「頑張り上手」になりました。

その一方、長男である弟は、
ただそこに存在しているだけで喜ばれ、
価値を認められる存在。

 弟 = 存在そのものに価値がある(優先される存在)

 私 = 役に立っている時だけ、価値がある(二番手の存在)

「どんなに頑張っても、
私はあの子のようにありのままでは一番にはなれないんだな」

そんな絶望を抱えたまま、
いつの間にか大人になっていたような気がするのです。

頑張り上手という名の「搾取」のターゲット


この絶望を埋めるために、私たちは大人になっても
自分の存在意義の証明」
を続けてしまいます。

  •  リラックス=怠けることだと感じ、常に自分を追い込む。
  • 「甘えは恥」と自分を律し、完璧主義を貫く。
  •  自分を必要以上に頑張らせて、周囲を喜ばせる。
  • 相手から失望されるのが怖くて、努力を怠らない。

そうやって必死に「役に立つ自分」を作り上げますが、
ここには残念ながら『からくり』が隠れています。

それは、頑張り上手な人ほど、
無意識のうちに他人からの
「搾取」のターゲットになりやすいということです。

あなたが「役に立とう」とすればするほど、
周囲はあなたを「大切に扱う対象」ではなく、
「都合よく使ってもいい便利な存在」
として見るようになります。

 

その頑張りは、誰のためのもの?

もし、あなたに深く思い当たる節があるなら
少し胸に手を当てて考えてみませんか。

「あなたのその頑張りは、一体誰のためのものでしたか?」

それは、
お父さんやお母さんを喜ばせるためではなかったでしょうか。

だって、
子どもは、みんな親のことが大好きですよね。


お父さん、お母さんの笑顔が見たくて、
力になりたくて、健気に頑張ってしまう。
その気持ちはとても純粋な親への「愛」だったはず。

けれど、そうやって「いい子」でいることでしか
自分の居場所を得られなかったとしたら、

「役に立たないと、ガッカリされて大切にしてもらえない」
=>>>「だから私は、頑張らなくちゃいけない!」

という恐怖を伴う「生存戦略」へと
変わっていってしまったのかもしれません。


「自分の存在意義の証明」を卒業する

こうしていつの間にか、
自分の存在意義を「頑張る」ことで証明し続けてきたなら...

その結果、得ることができた「成功体験」も多くあるはずです。
「頑張っているね」と認められ、
「あなたのお陰で助かった」と喜んでもらえることが
あなた自身の喜びでもあったかもしれません。

でもその一方で
その証明方法は、
あなたの自由な動きを縛ってきました。

ここで問い直したいのは、
「どうして私は大切にされないの?」
ではなく、

「私は、私を大切に扱ってきただろうか?」

と自分自身に問いかけてみることが大切なのかもしれません。

頑張らないと価値がない、
役に立たないと居場所がない。

そうやって自分を追い立ててきたのは、
他人だけではなく、
いつの間にか“自分自身”だったのかもしれません。

もちろん、頑張ることは悪いことではありません。

でももし、その頑張りが

「嫌われないため」
「見捨てられないため」
「一番になれない不安を埋めるため」のものだったとしたら?

そろそろ、

「存在証明のレース」から降りてもいいのかもしれません。

あなたは、

誰かの役に立っているときだけ
価値がある存在ではありません。

頑張っているときだけ
大切にされる存在でもありません。

まずは、

私が、私を大切に扱う。

そんな小さな決断が
あなたをゆるめるきっかけになるのかもしれません。


ここまでお読みいただきありがとうございます!
こちらも是非ご覧ください。

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カレー屋でもらった50円分の5円玉10枚のお釣りについて書こうと思う

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のテーマは

お釣りでもらった50円分の5円玉10枚。
あなただったら受け取る?


「モヤモヤ」って、わりと私たちの身近なものですよね。

今日は、自分の中で感じた
「モヤモヤ」
(・・・なんか字までモヤって見えますが(笑))
についてお話ししたいなと思います。

自分をすこし深掘りしてみたら
原因は「外側」ではなく
「内側」にあった...というお話です。


たった50円のはずなのに...

先日、近所のカレー屋さんで買い物をしたときの話です。
1,350円分のカレーを買い、2,000円を出しました。

お釣りは
500円玉1枚、100円玉1枚。

次は50円玉のところに行くのかと思いきや、
店員さんの手は、5円玉のところへ。

1枚、2枚、3枚……と数え始めたあたりで
(番町皿屋敷みたいw)
「え?え?」と、頭が混乱しているうちに、

5円玉10枚とともに、
「はい、650円のお釣りです」
と言って、私の手元へ差し出されました。

以前の私であれば、
「なんか嫌だな」と思いながらも受け取り、
家に帰ってから、

「なんかモヤモヤするー!!」

と、ひとりで怒っていた気がします。

では、今回はどうだったかというと。
「これは、ちょっといただけないので……」
と伝え、
改めて自分の財布の中を確認すると、
10円玉が5枚ありました。
(最初から出せばよかったな、という後悔が
一瞬、頭をかすめつつも)

それを出して、
700円のお釣りをもらいました。

表面的な解決はできたように見えますが
結局、私の中にモヤモヤは
残ったままだったのです。

 


私の脳内会話

正直に言うと、
そのときの私は、こんなふうに感じていました。

・なんだか、店員に軽んじられた気がする
・最初に「50円玉と10円玉を切らしているのですが」
 とか、一言あってもよかったんじゃない?
・サービス業としてどうなの?
 私だったら?こんなサービスはしない etc...

脳内の批判者が、
お店と店員さんをジャッジするような
会話を続けます。

一方で、
・こんなことでイライラするなんて、
 私はなんて心が狭いんだ。
・金額的には何も間違ってないじゃん。
 細かいことにとらわれすぎだ!

と、今度は自分を成敗し始める始末。

実は、
今までにもこんなふうに、
「外側のせいで、自分はこういう気持ちにさせられている!」
と、ネガティブな感情にのまれることが度々ありました。

だからこそ、
これは自分の内側を見つめる
いい機会なんじゃないかと思い、

一体、何が問題なんだろう。
どうしたら解決できるんだろう。
と、自分に向き合ってみることにしたのです。

 


他人は自分の写し鏡

「失礼なことをされて、モヤモヤした」

最初は、そんなふうに
このモヤモヤの原因は
外側である相手にあるように感じていました。

でも
今回起きた目の前の出来事は、

私の内面が作り出した世界を
相手の中にみつけだし

相手を批判していたのかもしれない
と気づかされたのです。


では私は、
相手の行動の中に何を見ていたのか。

振り返ると、
・お客さんには正しいサービスを提供するべき
・失礼なことをしてはいけない
・完璧にやらなくてはならない
・世間一般的な常識から逸脱してはいけない

そんなふうに、
自分の中の
凝り固まった常識やルールを、
目の前の相手に当てはめ、

同時に、
自分が自分に
禁止してきたことを、
相手の中に見つけていたのかもしれません。


だとしたら、
これは誰の問題なのか。

「あぁ、これは自分が選んでいる問題だな」

そんな気づきにたどり着いたのです。

そもそも、
私たちはなぜ、
こうした反応を選んでしまうのでしょうか。

 


不快を避けようとすればするほど...

人は無意識のうちに、
不快を避け、快を得ようとするものかと思います。

例えば、
「仕事ができない無力な自分は感じたくない」
という思いを原動力に
完璧を目指したとしましょう。

頑張った結果、
人から評価されることもあるかもしれません。

でも一方で、
目の前に仕事でミスをする人が現れたとき、

その人を
「だめだ」と
レッテルを貼り、
決めつけしてしまう可能性もあります。

だから、
「無力な自分を感じたくない」
という感覚を避ければ避けるほど、

不思議なことに、
そうした部分を持つ人が
目につくようになるのも
よくあることなのかもしれません。

 


そんな時こそ自分の感情を感じきる

今更ですが、
私自身も、
これまで書いてきたような性質を
持ち合わせています。

「ダメな自分なんて感じたくないじゃない」

私はずっと、
そう思って生きてきたように思います。

 

だって感じてしまったら、

 

自分の存在を
消したくなるような感覚にもなるし、

必要のない人間だと
人から拒否されて、
居場所がなくなる恐怖も湧いてくる。

なにより、
むなしさ、やるせなさ、
悲しみ

いっぱいになってしまうから。

でも本来、
わたしたちは
あるがままの自分で
存在したっていいはずなんですよね。

それを素直に受け入れることができたら
羽のように軽く生きていけるのに。

だからこそ
今日はここで自分自身に言いたいなと思うのです。

むなしさ、やるせなさ、悲しみを
ちゃんと感じて
自分のものとして
受け入れたとき、


その先に、
どんな自分が待っているのだろう。

ここまでお読みいただき感謝感激です♪

褒められるのは、好きだけど嫌い

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のテーマは

褒められるのは、好きだけど嫌い

 

「〇〇さんの、その気配り素敵ですよね」
そう言われたとき、
「いえいえ、私なんか全然です」
そんなふうに返して、受け取らなかったり…


または、
「〇〇さん、仕事が早いね。助かるよ」
と言われても、
「他のみんなと変わりませんよ」
と、さらっと流してしまったり。


内心では、ちょっと嬉しい。
でも、どことなく居心地が悪い。

 

そんな経験、意外とよくあるのかもしれません。

 


 

◆ 褒め言葉に心がざわつくワケ

褒められたその先で、
私たちは「何が起こりそう」だと
感じているのでしょうか。


たとえば、こんな感覚です。

  • 出る杭は打たれる、とどこかで信じている
  • 褒められたあとに、けなされた経験がある
  • 褒め言葉には、何か裏がある気がしてしまう
  • 喜んでいたら「調子に乗っている」と思われたことがある


こうした体験があると、
心の中では、こんな結論が出来上がります。

 

「褒め言葉を受け取った結果、
傷つくくらいなら、
最初から受け取らないほうがいい」
あるいは、
「どうせ後で否定されるなら、
最初から
“そんなことない”と否定しておいたほうが安全だ」


ここで起きているのは、
受け取ってしまった結果、
傷ついてしまうことから自分を守るための防衛反応です。


だから私たちは、
受け取りたい気持ちがあるのに、
同時に、それを拒んでしまうのです。

 


 

◆ この問題の根っこには何があるの?

この問題の本質は、何でしょうか。


それは
信じて、裏切られる恐怖


褒め言葉を受け取るということは、
言いかえれば、相手の好意を信じることでもあります。


ですが、
人を信用してはいけない
そんな信念をどこかで持っている場合、


根本的に、
褒め言葉を受け取ること自体が
難しくなってしまうのです。

 



◆ この問題と、原家族・周囲との関係

幼い頃、
褒められたあと、
自分が喜んだその直後に否定されたり、
諌められたりした経験はなかったでしょうか。


たとえば、親から
人の褒め言葉には裏があるから、簡単に信じてはいけない
と言われたり、
周囲から「あいつ、調子に乗ってる
と言われて無視されてしまったこと。


あるいは、


「しっかりしているね」
「いい子だね」
そう言われるたび、その言葉がうれしくて、
期待に応えようと頑張ったけれど、
頑張りきれなくなったとき

 

弱い自分を見せたら、
受け入れてもらえなかった。


このように、
信じていた人に裏切られたり、
受け入れてもらえなかったように感じる体験があると、
心は、少しでもショックを和らげようとして、
早い段階から学習を始めます。


そんな体験を重ねるほど、
信じないほうがいい
受け取らないほうが安全

 

だから
褒め言葉を受け取らなければ、
傷つかずにいられるという安心感につながることもあるのです。

 

すると、人の好意を前にすると、
嬉しさより先に、瞬時に
「受け取ってはいけない」と判断してしまう。

 

そんなことが、
心の中で起きているのかもしれません。

 


 

◆人の心を読みすぎて、苦しい

私たちはしばしば、
この人は信頼できる人なのか、そうではないのかを、
相手の表情や態度、行動から
必死に読み取ろうとして、
苦しくなってしまうことがあります。

 

一生懸命に人の心を読んで、
傷つかないように自分を守っている面もあるんですよね。

 

でも実際、
目の前に信頼できない人がいるのも事実ですし、
信頼できる人がいるのも事実。

 

信頼して人とつながることを選ばなければ、
傷つくことは避けられるかもしれません。

 

でも、それでは、
何も変わらないままです。

 

誰を信頼するか、
誰の言葉を受け取るかは、
もちろん、あなたが決めていいことです。

 

ただ、
信じてみたい人が現れたときに
「傷つくかもしれない」という怖さは、
消そうとしても消えないもの。

 

その怖さを受け入れて、
自分はどうなりたいのか。
それを、自分に問いかけてみる。

 

それもまた、ひとつの選択なのかもしれませんね。

 


 

◆さいごに...

今、
褒め言葉を受け取れない自分を、
無理になんとかしようとしなくていいのだと思います。

 

受け取れない自分を
無理に変えようとすると、
「受け取れない自分は、おかしいんじゃないか」
そんなふうに、
かえって自己否定を深めてしまうことがあるからです。


そしていつか何かのタイミングで、
「あ、なんだかこの人の言葉、少し受け取ってみたいな」

 

そんなふうに感じたときに、
試しに受け取ってみようかな、、、くらいのスタンス
ちょうどいいのかもしれません。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

他人の不機嫌のお世話していませんか?

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

今回のタイトルは

◆他人の不機嫌のお世話していませんか?

ひょっとして、他人の不機嫌のお世話をしていませんか

あなたは、家族や友人、職場など
自分の周りの人の不機嫌に振り回されて、

ついやりたくもないのにお世話を焼いてしまった
自分自身に責任を感じて
グラグラ、モヤモヤ
してしまう…

そんな経験はないでしょうか。

実は最近、私自身にそんな出来事が続いたので
ここでシェアしたいと思います。

 


◆人の不機嫌に振り回される

私は、学生と接触する機会がある仕事をしています。
ある日、いつも元気なスポーツ少年A君が
「どよ〜ん」とした雰囲気で現れました。

そして、普段であれば私の聞いたことに対して、
自分なりに頑張って答えようとするのですが、
「何か大切な物でも下に落ちているんですか?」と聞きたくなるくらい、
目線はず〜〜っと下の下…
聞いたことに一旦は答えようとするけれど

沈黙…沈黙…チーン

でも職業柄、私は答えて欲しいから頑張ります。
「◯◯はどう?」
「ここが⬜︎⬜︎なんだね」
「私、聞いているんだけどなぁ…」

と声をかけるけど、もはや心ここにあらず。
最終的にため息をつきながら、彼は時計を気にし始めました。

「あー、早く帰りたい」

という、彼の心の声が聞こえてしまったように感じた瞬間、
私は彼に対して腹を立てている自分に気が付いたのです。

そして、
「私が、腹を立ててはだめじゃないか」
「相手に呑まれてはだめ」
そう思えば思うほど、モヤモヤは膨らんでいきます。

そして、その状態は1時間続き
彼は終わると同時に、
誰よりも早く部屋を出て行きました。

こんな時、一体私はどんな心持ちでいれたらよかったのだろう。
そんな風に思ってしまう出来事だったのです。

 


◆無意識な"心のくせ"

不機嫌な人を目の当たりにした瞬間、
私たちは、どんな感覚や行動を無意識に選んでしまうことがあるのでしょうか。

  1.  "自分のせいだ"と無意識に感じてしまう人
    相手の不機嫌を目の当たりにすると、
    「私、何かした?」
    「私のせいでは?」
    と自分に責任を感じ、

    「私が、この場をおさめてなくてはいけない」
    「私が、相手のご機嫌を取らなくてはならない」

    このように、自動的に思い込んでしまうことがあります。
    その結果、
    相手の機嫌を直す役割を引き受けてしまうのです。

  2. 相手に責められた気がしてしまう人
    相手の不機嫌を目の前にすると、
    「その態度、失礼なんじゃない?」
    「私は、こんなにちゃんとやってるのに」

    相手の不機嫌は、自分への攻撃だ
    こんな風に受け止めてしまう人もいます。

    その結果、
    「あの人のせいで、私まで嫌な気持ちになってしまった」
    「あいつのせいで、なんかむかつく!」
    と相手の不機嫌の被害者になってしまうこともよくあることかもしれません。

どちらも相手の感情を、
自分の問題として引き受けてしまっているーこんな共通点があります。

 


◆なぜ、他人の感情を自分の問題にしてしまうの?

それは、
「相手の感情を優先することで、自分を守ってきた経験があるから」
かもしれません。

幼い頃から、
親の顔色をうかがってきた人。
その場の空気を読んで行動することが当たり前だった人。
感情を出すことを否定されてきた人。

こうした環境では、
自分の気持ちよりも
「相手がどう感じているか」を先に察することが、
生きていくために必要だったのです。

また、

・自分の意見を言うと否定された
・自分で決める前に、親がすべて決めてしまった
・正しいか、間違っているかで行動を判断されてきた

そんな経験があると、
「自分の感覚を信じる」ことが難しくなります。

だからこそ、
相手の不機嫌を前にすると、
無意識にこう感じてしまうのです。

「私が何とかしなければ」
「私が悪いのかもしれない」
「この場をおさめないといけない」

さらに、
かわいそうな親の面倒を見てきた人や、
親から感情を出すことを拒絶・否定されてきた人にとって、

相手や、相手の感情を優先相手とのは、
安心して生きるための、
唯一の方法だったのかもしれません。

それは、
生きるための戦略であり、
知恵でもあったのです。

今の自分に、
その戦略は本当に必要でしょうか。

それを手放すタイミングが、
今まさに来ているのかもしれません。

 


◆他人の不機嫌を「返す」という選択

他人の感情のお世話をすることには、
これまで、たくさんのメリットがありました。

ただ、
「今の自分には、もう必要ない」
そう決めたとき、

こんなふうに、
自分自身の中で宣言してみる方法も
有効かもしれません。

 


 

「今、目の前にあるこの不機嫌は、
 他人のものであり、私のものではありません」

 

「私は、人の感情のお世話役は、もうしません」

 

「私は、私の感覚や感情を大切にします」

 


 

言ってみて、いかがでしたでしょうか。

「これでいいのかもしれない」
そんな感覚がよぎった方もいるでしょうし、

少しホッとした感覚や、
胸の奥がゆるむような感じがあった方もいるかもしれません。

もし、
ひとりでは少し難しいと感じたときは、
セッションの中で一緒に整理していくこともできます。

ここまでお読みいただき、
ありがとうございました。

あなたは、怒りを出すことが「悪いこと」だと思っていませんか?

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー
 

こんにちは。Bonity横内です。

 

今回のテーマ

あなたは、怒りを出すことが「悪いこと」だと思っていませんか?

「怒る」って悪いことなの?

「怒り」をコントロールできるようになりたい
「怒り」の感情なんて、なくしたい


これは、多くの人が抱えている悩みのひとつだと思います。
リトリーブサイコセラピーの門をくぐるまで、私も同じ悩みを抱えていました。

私の経験でいうと、
子育てで「何回おんなじこと言わせるの!」とイライラする。
夫に対して「私ばかり頑張って、あなたは手伝ってくれない」と感じるイライラ。
義理の親の無遠慮さに「ちょっと失礼じゃない?」と胸にモヤッとくるイライラ。

それぞれのタイミングで処理されなかったイライラは、
次第に“織(お)り”のように何層にも重なっていきます。

そしてある日、なんでもないようなささいな出来事で、
地獄の窯の蓋が吹っ飛んで「どっかーん」と大爆発。
そのあとには決まって、
「あ〜…またやってしまった」と自分を責める罪悪感だけが残る。

それでも当時の私は、
悩んではいるのに“どう向き合えばいいのか”もわからず、
かといって本気で解決しようとしていたわけでもなく……
同じ出来事がぐるぐるとループしているような時期でした。

わたしと同じように苦しんでいる人は、きっと少なくないはずです。

だからなんでしょうね、
よく「アンガーマネジメント」や「イライラ・怒りに振り回されないためには」という本を目にします。

でも、
「こんなこと相談するのは恥ずかしい」
「仕方ない、我慢するしかない」
と悩みを脇に置いて、他のことで自分を紛らわてしまう人は多いのかもしれません。

 

私たちが怒りに悩むのはなぜ?

ところで、
なぜ人は「怒りをコントロールできるようになりたい」と願うのでしょうか?

  • 怒ることはよくない恥ずかしいことだと思っている
  • 怒ることで、もうこれ以上誰かを傷つけたくない
  • 怒ってしまった後の罪悪感を感じたくない

でも本当はその裏で、

  • 怒りを出せない自分が苦しい
  • 怒りを出したら出したで止まらない自分も苦しい
  • 怒りを感じている自分が、いよいよごまかせなくなってきた

こうした“心の限界サイン”に、
自分でも気づき始めている人もいるかもしれません。

では、私たちは「怒り」というものを
どう捉えているから、怒ることを躊躇してしまうのでしょうか?

 

怒ることを躊躇するのはなぜ?

怒りを感じているのに「出してはいけない」と思ってしまったり、
そもそも怒りという感情に気づけなかったり、
怒りを表すこと自体が苦手だったり……。
気づけば、怒りに蓋をすることが“当たり前”になっている場合があります。

その背景には、

「怒る=悪いこと」
「感情を出す=嫌われて孤独になる」

そんな思い込みが、心の深いところに根づいている可能性があります。

そして、この思い込みには、
幼少期の親からの影響が大きく関わっていることがあります。

たとえば、

  • 怒った瞬間に「そんな子はいらない」と拒絶された
  • 感情を出すと「うるさい」「いい子にしなさい」と否定された
  • 家庭の中で“怒り”がタブーだった
  • 逆に、親が理不尽に怒りを爆発させる人で、怒り=恐怖になっていた

こうした経験により、
自然と 「怒らないほうが安全だ」 と学習していきます。

 

怒ることは悪いこと?

怒ることは決して悪いことではありません。

自分が嫌な思いをしたときに「嫌だ」と感じるのは当然の反応ですし、
大切な人を守ろうとするときに湧き上がる怒りも、自然な反応です。

ただ、当時の自分を振り返ると—
どうしてこの人はわかってくれないんだろう」という思いからくる怒りに
長いあいだ苦しんでいました。

その奥には実は、こんな気持ちがありました。

  • わかってもらえない私は、どこか馬鹿にされているように感じる

  • 大切にされていない気がして寂しい

  • どうしたって、相手にわかってほしい

  • 相手を変えたい
  • 相手を自分の思うようにしたい、コントロールしたい

怒りの根っこには、
「私のことを大切にしてほしい」
「わかってもらえないのは寂しいし、悲しい」
という思いがあったんだなぁ...と気づいたのです。

そして、その一方で、

「私のことをもっと大切にしろ!!」
「ギャーギャー(言葉にならない叫び)!」

と叫びながら、
本当は、相手を自分の都合よく変えたいという気持ちを
家族という一番近い相手にぶつけていたのです。

 

怒りの根っこに気が付いたら

自分で自分の内側を見ることができるようになってから、
「正直、わたし変わったよなぁ」と自分でも実感しています。
家族にも言われるくらいなので、きっと確実に変わってきたのだと思います。

怒りという感情は、“二次感情”だと言われています。
その奥には必ず、何かしらの本当の気持ちが隠れている。

私の場合、その怒りを辿っていくと、
自分の中でも認めたくなかった “寂しさ” や “悲しさ” がありました。
その本当の気持ちを、まずはそのまま受けとめること。

さらに、
自分の中の自己愛が炸裂して、
「相手を変えたい」と無意識に思っていた自分もいたんだ……
その部分も、責めずに受けとめられるようになりました。

こうして、
自分の内側にあるものをひとつひとつ認めていくと、
怒りに対する見え方が少しずつ変わっていきます。

「怒り」という感情は、私たちが持つ大切な感情の一つです。
決して消すことはできませんし、
むしろ私たちが自分の人生を生きるためには、欠かせないもの。

だとしたらなおさら、
これまで持て余してきたこの感情と、
もっと上手に付き合っていきたいですよね。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

あなたは自分のことを愛していますか?

ー自分に『問題解決する力』があることを思い出し、

未来に目を向けられる私にー

 

こんにちは。Bonity横内です。

 

今回のテーマ

あなたは自分のことを愛していますか。

あなたは自分のことを愛していますか?

「誰かを愛したいな...」
「愛されたいな...」
そう願っている人は、きっと少なくないと思います。

 

恋愛でも、結婚でも、友達との関係でも
『あたたかな繋がり』を求めるのは、人間の自然な欲求ですよね。

 

でも、どんなにその想いがあっても、
気づけば心がすれ違っていたり、
愛したい人なのに、うまく愛せなかったりすることがあります。

 


 

そこで今回取り上げたいのは、
エーリッヒ・フロムのこの言葉です。

「他人を愛することを学ぶためには、
まず自分自身を愛することを学ばなければならない。」

— エーリッヒ・フロム『愛するということ(The Art of Loving, 1956)』

 

この言葉が少し表現を変え、こんな風にも言われています。

 

「人は、自分を愛するようにしか他人を愛せない。」

 

ガガーン!

 

この言葉を初めて聞いたとき、
正直、私はかなりの衝撃を受けました。

投影の法則に当てはめて考えてみると──

もし「自分のことなんか好きじゃない」と思っているとしたら、
自分の中のその『心のレンズ』を通して、相手のことも見てしまっている。
そんなことが起こりえるからです。

 


 

◆「自分のことなんか好きじゃない」の、何が問題?

自分の心のレンズを通して世界を見るとき、
相手の言葉や態度も、そのレンズ越しに映ります。

「どうせあなたもそう思っているんでしょ」
「あなたも私のことなんて嫌いなんでしょ」

そんなふうに、無意識のうちに感じてしまう。

 

私はそのとき、思いました。
「……これって、わたし、けっこうヤバいのでは?」

 

なぜなら、かつての私は
“条件つき自己否定さん”だったからです。

「〇〇ができる私は好き、OK」
「⬜︎⬜︎ができない私は嫌い、NG」と。

そんな自分でいたら、
愛もまた『条件つき』になってしまいますよね。

 

さて、ここで改めて質問です。
あなたは、自分のことを愛していますか?

そして、
あなたの大切な人を、どのように愛していますか?

 


 

◆自分のことが嫌いになるプロセスって?

本当は、失敗しても自分を責めずにいたいし、
人と比べて落ち込まずにいられたらいいですよね。
もっと、自分をやさしく扱えるようになりたい。

だけど現実は、
ちょっとした出来事で「自分なんて…」と落ち込んでしまうことがあります。

一度の失敗が、まるで「全部がダメになった」かのように感じてしまったり、
人と比べた瞬間、自己評価メーターの針が
ガタンとマイナス側に大きく振れたり。

そんな体験が積み重なるたびに、
私たちは少しずつ
"自分は大切な存在だ"という感覚を失っていくのだと思います。

たとえば──
仕事で挑戦して失敗したとき、
「私はいつも失敗ばかりで恥ずかしい」
「人からがっかりされる私はダメだ」
そんなふうに感じ、自分のことが嫌になる。

自分にいいところがあるのは分かっているのに、
気に入らないところばかりに目が向いてしまい、
「私にはいいところなんてない」と自己卑下してしまう。

または、周囲の誰かと比べて、
「ブス」
「太っている」
「頭が悪い、仕事ができない」
そんなラベルを自分に貼りつけてしまうこともあるでしょう。

こうして、知らず知らずのうちに、
私たちは自分という存在を低く見積もってしまうのです。

そしてその結果、
「自分なんて嫌い」
という思いが生まれてしまうのです。


 

◆なぜ、自分が嫌いになってしまうの?

  1. "条件つきの自分"として扱われた経験

    親が喜ぶ私でいれば、
    認められる私でいれば、
    ここにいても大丈夫。

    そんなふうに幼少期を過ごしてきた人は、
    「がんばる自分」こそが価値のある自分だと感じやすくなります。

    そして、がんばり続けた分だけ
    人から認められたり、喜ばれたりする “成功体験” が積み重なっていきます。

    その結果、
    がんばることをやめられない
    一つのミスさえ許せない。

    だって、「できる私」じゃないと、
    愛されないような気がしてしまうからです。

  2. 他人の評価が、自分価値のモノサシになっている場合

    人に評価される自分は〇
    怒られたり注意されたりする自分は✖

    そんな“評価基準”で自分を見てしまうことがあります。

    もちろん、誰でも怒られたり注意されたりするのは嫌なものです。
    でも、同じ出来事でも受け取り方は人によって違います。

    「次は気をつければ大丈夫」
    「どこを改善すればいいかな?」

    そんなふうに前向きに捉えられる人もいれば、
    一つの指摘で

    「全部を否定された!」
    「もう自分はダメだ…」

    と受け取ってしまう人もいます。

    この“過度な捉え方”が起こるのは、
    心の奥でこんな信じ込みが働いているからです。

    • 「評価されない自分は、ダメで要らない存在だ」

    • 「評価されない自分は、嫌われて見捨てられる」

    そう感じてしまうと、
    人に嫌われないように、見捨てられないように、
    “完璧な自分”を目指したり、
    “期待通りの自分”を演じてしまったりします。

    でもそれは、
    本当の自分を押し込めて、
    “評価されるための自分”だけを生きているということ。

    その苦しさが積み重なると、
    「こんな自分なんて嫌い」と思ってしまうのです。


 

◆「自分を好きになる」って?

  1.  自分の認知はどうなってる?

    自分を好きになろうとする前に、
    ひとつ、気づいてほしいことがあります。

    それは
    「自分の認知(ものの見方)が、ゆがんでいることがある」
    ということ。

    たとえば
    一つミスをしただけなのに、
    「全部がダメになった」「私って本当にダメな人だ」
    そんなふうに思ってしまうことがあります。

    でも実際には、
    “一つのミス=全部のミス”ではありませんよね。

    • ひとつできなかった → 私は何もできない
    • 一度怒られた → 私は嫌われた
    • 今日うまくできなかった → 私はずっとダメ

    こんなふうに、
    たったひとつの出来事を“すべて”に広げてしまう思考が続けば、
    自分の価値を低く見積もり、次第に自分のことが嫌いになってしまいます。

    一事が万事だと、
    悲観的なメガネをかけているのは、他人ではなく自分自身だったんだな。

    ここに気づくことが、
    実は何より大切なのだと思うのです。

     

  2. 自分を愛するって?

    自分の自動思考や認知のゆがみに気づけたら、
    次のステージとして「じゃあ、自分を愛するってどういうこと?」というテーマが見えてきます。

    でも、その前に知っておきたいのが
    “よくある誤解” です。


    ● よくある誤解①

    「自分を愛する=自分を甘やかすこと」だと思ってしまう

    ● よくある誤解②

    「自分を愛する=いつもポジティブで、元気で、完璧でいること」
    だと思ってしまう


    でも実際の「自分を愛する」は、
    「甘やかす」ことでも、
    「いつも明るく完璧でいること」でもありません。

    今までの私たちは、

    自分のこういうところが嫌い
    → だから嫌
    → 隠したい、誰にも見せたくない
    → 無理やり頑張る

    そんな“自己否定ループ”の中にいたのだと思います。

    目指すのは、このループからの脱却です。


◆自分の「ダメだと思ってきた部分」を受け入れる

自分を愛するとは、
ダメなところを無くすことでも、
完璧な自分を作ることでもありません。

「ああ、私は今こう感じているんだな」
「私はこういう弱さも持っているんだな」

と、今の自分をそのまま“見てあげること”。

嫌いな部分を責めるのではなく、
「そう感じる自分には理由があったんだね」と、
そっと寄り添ってあげること。

その積み重ねが、
“自分を愛する”という土台になっていきます☺

 

ここまで読んでいただきありがとうございました☺