「欲しい」と言うことへの抵抗感

ふだんは忘れているのに、
何かのきっかけでふと思い出すイヤな記憶。
そんな記憶はないでしょうか。
起きた出来事そのものは、
ひょっとしたら小さなこと、なのかもしれません。
でも、そのときに感じた「恥ずかしさ」や「悲しさ」が、
ふいに頭をもたげてくることがあります。
そしてその感覚は、
大人になった今でも、
形を変えて繰り返し、
何らかの生きづらさとして現れることがあるのです。
今回は、そんな一見ささいに思える出来事が、
その後の私の感じ方や行動にどのような影響を与えてきたのか、
ひとつの例を通して振り返りながら、
こうした問題をどう扱っていけるのか、
自分なりに考えてみたいと思います。
◆小学生の頃の出来事
私の経験を、少しお話しさせてください。
小学校5年生くらいの頃だったでしょうか。
親戚との食事の帰りに、みんなで買い物へ行きました。
そのとき私は、母に洋服が欲しいとねだって、買ってもらったことがあります。
後日、母からこんなふうに言われました。
「お前の娘はわがままだなって、おばちゃんが言ってたぞ」
そして母は、
「おばちゃんにそう言われて、お母さん恥ずかしい思いをしたわ」
怒りながら、そう私に伝えてきたのです。

数十年たった今でも、
繰り返し思い出してしまうくらい、
その言葉は私の胸の奥に残り続けていました。
◆ 子どもだった私が受け取ったもの
そのとき私が受け取ったのは、
- 「欲しい」と言うことは恥ずかしいことなんだ
- 自分の欲求を出すことは、わがままなんだ
- 私が欲しがると、母に恥をかかせるんだ
という感覚だったのだと思います。
でも、子どもだからといって、
そんなふうに自分の欲求を簡単になかったことにはできません。
それに子どもは、親の力を借りなければ、
自分の欲求を満たすことが難しい存在でもあります。
では、その後の私はどうなったかというと、
「〇〇が欲しい」と言うときに、
あれこれ言い訳を探し、
自分なりに“まっとうな理由”を用意しつつ、
どこか怒りのようなものまで感じながら、
親に伝えていたように思います。
そして大人になる頃には、
「欲しいものは自分で買うべき」
「その方がラク」
「誰かに満たしてもらうようでは恥ずかしい」
そんな思い込みが、
少しずつ強化されていったように思うのです。
◆ 子どもの「欲しい」に敏感に反応してしまう
だから私は、
子どもが「これ欲しい」「あれ買って」と甘えてきたとき、
必要以上に強く反応してしまったのだと思います。
あの頃の自分のような思いはさせたくない。
そんなふうに、過去の自分をどこかで救いたくなることがあります。
また、子どもの欲求に
「No」と答えたときに湧き上がる
あの罪悪感を感じたくない、
という気持ちもあるのだと思います。
その一方で、
買い与えてばかりいたら、
子どもをわがままにしてしまうのではないか。
私は子どもの言いなりになっているのではないか。
素直に甘えられる子どもに対して、
なんと狡さのようなものを感じてしまうこともある。
そして逆に、買わないことを選ぼうとすると、
やはり罪悪感が湧いてきます。
「そんなものくらい買ってやればいいじゃないか」
と、妙に“大人な自分”の声が聞こえてきたりもするのです。
◆ どっちに転んでもモヤモヤ
買ってあげても、
子どもの言いなりになっているような不快感。
買わなければ、
子どもの欲求を叶えてあげられない自分に感じる罪悪感。
そんなふうに、どちらを選んでも、
どこか少しモヤモヤしていたのです。
こうして客観的に自分のことを見てみると、
私は「これが欲しい」という欲求への関わり方が、
少し“いびつ“だったのかもしれないな、
と改めて気が付きました。
◆ 私を縛りつけていたもの
自分が幼少期に満たされなかった思いを、
子どもにはさせたくないと思うこと。
それ自体は、決して悪いことではありません。
でも、たとえ子どもの欲求を私が満たしたとしても、
その行為によって、私自身が本当に満たされるわけではない。
だからこそ、どこかにモヤモヤが残るのだと思います。
では、本当に私の「欲しい」という気持ちは、
恥ずかしいものなのでしょうか。
もちろん頭では、
自分の欲求が恥ずかしいものだとは思っていません。
けれど、あのとき母の口を通して言われた言葉を握りしめたまま、
私はどこかでずっと、
恥をかかないような自分でいなければならない
人の前に出す自分の欲求は、妥当で正しいものでなければならない
そんなふうに、自分を縛りつけていたのだと思います。
そして私を縛っていたのは、
今となってはもう、母の言葉というよりは、
その言葉を抱え続けてきた私自身だったのだと気がついたのです。
◆ ひとことで「恥」といっても
幼少期に経験した、本当にささいな出来事。
でも、それが"ちくり"と心に傷を残しているとしたら
「もう、こんな思いはしたくない」
そう思うのは、ある意味とても自然なことなのかもしれません。
だから私たちは、
「もう二度とあんな経験はしないように」と、
自分を守ろうとするのだ思います。
私もまた、そうやって鉄壁のガードで自分を守ってきました。
今回は「恥」というテーマで自分の経験と結び付けながら書いてみました。
改めて考えてみると、ひとことで「恥」と言っても、
そこにはいくつかパターンのようなものがあるように思います。
- 人から叱られる、下に見られる、笑われる、ばかにされる恥
- できない自分、失敗した自分、みっともない自分への恥
- 人に頼ること、甘えることの恥
弱い自分は恥ずかしい、という感覚 - 目立ったり、人に見られることによつて感じる恥
- 共感性羞恥
他人の失敗やスベっている場面を見て、自分まで恥ずかしくなる感覚
もちろん、これらはきれいに線引きできるものではありません。
ひとつひとつが独立しているというより、
根っこのところで、うっすらとつながり合っているのだと思います。
◆ 最後に...
幼少期の嫌な出来事を言葉にすることで、
いかに私が、私自身を縛ってきたのか。
そのことに改めて気づくことができたのは、
私にとって大きな発見でした。
まっとうな理由が説明できなければ、
「私は欲しがってはいけない」
そんなふうに思っている自分がいたことにも、驚きました。
「恥」の感覚は、やっぱりイヤなものです。
だからこそ、もう二度とそんな思いはしたくないと、
人は気をつけながら生きるのだと思います。
でも、その感覚に縛られすぎると、
恥を避けることばかりに必死になって、
かえって自分を不自由にしてしまうこともあるのかもしれません。
失敗して恥を感じることは、たしかに苦しいですよね。
けれどそれは、
自分の弱さや痛みを知り、
成長していくためのきっかけにもなりえる。
私はそんなふうに思っています。
これを読んでくださっている方は、
ご自分の「恥」の感覚と、どんなふうに向き合っているでしょうか。